大学の意義について。(1)

近頃、大学の意義が問われているニュースをよく目にする。この話題は、昔からよく取り上げられてきた。

今回は、大学の意義について、現役の大学生である僕の意見を書いていこうと思う。

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確かに、遊んでいる人は多い。

この記事によると、日本の大学は海外と比べて、大学の意義を評価する者が少ない。一方で、自由度を評価する者が多いそうだ。また、2001年から2011年にかけて、テレビの視聴時間が減り、勉強時間が増えているが、海外と比較するとまだまだ少ないそうだ。

日本の大学は「レジャーランド」だからダメなのか? | ビジネス | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

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確かに、僕の大学では、授業に出席しないで遊びほうけている人が山ほどいる。授業も遅刻してくるし、途中で抜け出す人も沢山いる。生徒は、本当に不真面目だと思う。レジャーランドと呼ばれても仕方がない。

一方で、真面目に授業を受けている生徒にも問題はある。学校で真面目であっても、それだけでは不十分だ。自主的に勉強をしなければ、教えられた内容を身につけることは難しいからだ。日々の勉強が大切なのだ。

しかし、テスト期間外に、自主的に勉強している人は全体の1割以下だと思う。ほとんどが、勉強に関して受身の姿勢なのである。学校では真面目であっても、自主性のある生徒を見つけるのは非常に難しい。

授業に関して言うと、有意義な授業もあれば、クソつまらない授業もある。教え方が下手だったり、教授の自己満足で終わっていることもある。そもそも、教えている内容に需要がない時も多々ある。

これらを考えると、大学のあり方に疑問を投げかける人がいて当然だ。

大学は知欲を満たす場所である。

しかし、それでも僕は、今の大学のあり方を擁護する。問題は、世間の大学に対する認識にある。

大学は、勉強や研究をする場所である。自分の興味をとことん追求する場所である。自分の知欲を満たすために大学はある。決して、職業訓練校なんかではない。これを勘違いしている人は多い。

また、生徒も大学のことを誤解している。就職のために、なんとなく大学に入ってきている人が多い。「どうしてこの大学を選んだのか」と聞くと、大抵、「偏差値が~」とか「就職率が~」という答えが返ってくる。

大学は研究をする場所なので、本来であれば、「ここの教授に教えてもらいたくて」とか「この分野について興味を深めたくて」という答えが返ってくるはずだ。偏差値や就職率は関係ない。不純な理由で、大学に所属している人が圧倒的に多い。

これには、企業の責任も大きい。大学の偏差値が選考基準の大半を占めているからだ。大学と企業は、本来、切り離して考えるべきだ。確かに、大学の研究が結果としてお金に結びつくこともある。しかし、目的が全く異なる。よって、大学の研究は、企業の利潤とは別のもとして考えるべきだ。

量産型大学生

大学の意義が問われることの最大の原因は、大学生にあると僕は思う。授業に対する腐れきった姿勢や態度などが理由として挙げられる。しかし、一番の理由は、自分が何をしたいのかわかっていない人が多いことだ。

みんな、自分の世界を持っていない。周りが良いと言ったものが良いと感じるし、周りがやっているから自分もやる、そんな考えを持っている人が多い。ただ、周りに同調しているだけ。

同じような考えを持った量産型の大学生が大量にいるのだ。

話してみると分かるが、そういう人は話がクソつまらない。その人らしさを感じないからだ。量産型の考えしか持っていないから、同じような考えを持つ人が腐るほどいる。わざわざ、この人から話を聞く必要がないのだ。

量産型大学生の生態

だが、彼らは流行に流されることを好んでいるわけではない。嫌々、その流れに乗っているのだ。「抜け出そうとする思考を持ち合わせていない」と言った方が的確かもしれない。

だから、彼らから出る言葉はネガティブなものが多い。「疲れた」、「面倒くさい」、「寝てない」、「つまんない」など。また、教授や研究に対する愚痴を口にする人もいる。

最も理解できないのは、自分の研究に対して愚痴を言う輩だ。本来、自分が研究したいことを研究すればいい。研究室説明会に行ったり、教授や先輩に質問をしたりする等、熟考した上で研究室を選ぶ。自分で選んだ道なので、愚痴が出るはずがない。

しかし、彼らは自分の手で選んではいない。友達と相談したり、自分と周りの成績を比較して、オートマティックに研究室を選ぶ。自分の意見など、一切考慮していない。

このような過程を経て、愚痴が大量に産出される。彼らは、自分のやりたい分野が分からないので、どの研究室に配属されても愚痴が生み出されてしまうのだ。

同調圧力

量産型大学生は、自分たちと違う行動をする者を許さない。彼らと違う行動をすると、同調圧力をかけ、輪を正そうとする。前回お話した、TA(ティーチング・アシスタント)に関する先輩とのいざこざが良い例である。

(いざこざに関して → 自分らしく生きることの大変さ。自分らしく生きることの大変さ。(つづき)

僕にはTAをやる義務はないし、約束もしていない。やりたい人がやればいいだけの話である。彼らに、僕がTAをやらなければならない理由を聞いても、「そういうものだから」とか、「やらないなんてあり得ない」という、お話にならない答えが返ってくるだけであった。彼らに論理など通用しないのだ。

彼らは、やりたくない研究をやり、やりたくない仕事をし、望んでいない人生を歩んでいく。「やりたくなければ、やらなければいい」というシンプルな答えを理解できない。ありもしない義務感で、自分の選択肢を狭めていく。そして、彼らの人生という沈みかけの泥舟に、周りの人を乗せようとしているのだ。

本当に質が悪い。

量産型大学生の製造工場

これまで紹介した量産型大学生は、義務教育から生み出されていると僕は思う小学校や中学校といった、みんなと同じ行動をしていれば良しとされる環境から作られていく。個性を排除し、同調を良しとする風潮がその根源だ。

現在の学校のスタイルは、明治時代に作られたものだ。教育内容には変化が加えられてきたが、スタイルは変わっていない。大量の人を指導するためのスタイルである。当時の背景からして、個性よりも同調を良しとする教え方である。

昔から変わらないスタイルで教えられた生徒たちに個性などない。教育課程において、彼らの個性は削ぎ落とされてしまったからだ。

彼らに、自分の考えを主張しろという方が酷だ。自分の意見という概念すらないのかもしれない。

量産型大学生は、大学に入る前から完成されている。

よって、大学のスタンスは今のままで正しい。直すべきは、個性を持たせない大学までの義務教育にあると僕は考える。

(つづく)

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