友達とそうじゃない人の境

 友達とそうじゃない人の境とは何なのか。

 私は『自分のこだわりを超えて相手の短所を受け入れられるかどうか』だと考えている。

 そもそも、多くの人が友達というものを軽視し過ぎだと思う。

 少し話をしただけで友達だと言い張ったり、学校の授業で一緒に共同作業しただけで心の距離を詰めてこようとする。

 私の経験上、心の距離の測り方がガサツな人は友達の扱い方が雑である

 軽薄にお金を借りようとしたり、約束を守らなかったり、無礼な態度をとる。

 『親しき中にも礼儀あり』とはよく言ったもので、親密だからこそ丁寧に接していかなければならない。

 もちろん配偶者のような人生のパートナーに対してもそうである。自分のよき理解者なのだから。

友達≒親友

 私にとって『友達≒親友』である。

 言葉の綾なのかもしれないけど、それほど友達という言葉を重く捉えている。

 私がこれほどまで慎重になってしまっているのは過去の体験による。

 小学生の頃に友達だと思っていた人に裏切られた経験がある。

 今思えば大した出来事ではないかもしれないが、当時の私からすると結構大きな衝撃だった。

 それ以来、友達というものに対して慎重になっている。傷つかないように恐る恐る友達をつくっている。

 だから、友達とそうじゃない人の境は私にとって死活問題なのである。

 これから社会人になるにあたり、今までの比ではないほど人との交流が多くなっていく。

 その中で、しっかりと友人を見極められるかどうかは非常に大切である。

 人生の問題の8割は人間が持ってくると言われている。その問題に対してちゃんと納得してるのか、はたまた巻き込まれているのか。自分の周りに置く人をよく考えるべきである。

 友達をつくる上で、私が今まで本能的にやってきたところを見つめ直し、書き記していきたい。

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私のこだわり

 私は時間とお金に関して色々とうるさい。時間は人生でもっとも価値があると考えている。

 また、時間の1つの形であるお金も同様に価値が高いと考えている。

 だから、その両方に対してルーズな人を許すことができない。

 先日、友人に食事に誘われた。私と友達A,Bの3人であり、連絡をくれたのはAであった。

 とりあえず、日にちだけ言われて詳しい時間については言われなかった。だから、連絡をずっと待っていたが一向に連絡が来なかった。

 私の常識としては、18時に食事が始まるとしたら遅くても当日の14時くらいまでには連絡が欲しい。

 結局、連絡が来たのは食事が始まる1時間ほど前だった。これは私の常識とは合わない。

 私の時間を何だと思っているのか。行くなら行く、行かないなら行かないとハッキリしてほしい。

 気になることがもう1つある。割り勘についてである。

 こういう食事会になると必ず割り勘になる。

 だから、予めお金をおろしておくなり崩しておくなりするのが普通である。

 でも、2人とも毎回それらをしてこない。この無礼さに腹が立つ。

同じ友人でも、不満の感じ方が違う

 ここで面白いのが、A、B2人とも全く同じ無礼な行動をしているのに、私はAに対してだけ不満を感じていることだ。Bに対しては何にも感じていない。

 相手が違うだけで感じ方に相当な差があるのだ。Bには何をされても許せる自信があるほど、Bに対してだけ寛大なのだ。

 過去の経験からしても、決してBは私のこだわり通りの人ではない。

 でも、彼にだったら騙されてもいいとさえ思ってしまっている

 この感情こそが友人に対する想いなのかもしれない。

短所を補って余るほどの長所

 そう思う根拠の1つに「彼のセンスの良さ」がある。彼の生き方にセンスを感じている。

 例えば、私は夜更かしという行為が嫌いだ。だから夜型の人に対して軽蔑の目で見ているところがある。

 だが、彼の登場によりその考え方が変わった。

 彼は楽しそうに夜更かしをする。夜更かし独特の罪悪感を楽しんでいたのだ。

 そういう楽しみ方があるのだと私は感心した。今までに無かった視野をくれた。

 彼は私に無い視点を持っている。私は彼みたいな生き方は絶対にしないが、彼の生き方は刺激的だ。

友人関係と交配との相似

 生物が生物たる所以として、その繁殖能力にある。自分と異なる者と交わり、より環境に適した子孫を残す。

 自分の単純なコピーだけでは1つのウィルスによって全滅することがある。だから、他社と交わるのである。

 友達との関係もそれに似たものがある。何も遺伝子だけが環境に適応する術ではない。

 友人との交流によって考え方や感じ方が変わり、視野が広がる。その結果、危機を回避できることも多いにあるはずだ。

 友達と自分とでは合わない部分もあるかもしれない。だが、それ以上に惹かれる長所がある。

 その長所が私に何かしらの有益な影響を与えている。それが私を危機から遠ざけてくれているのである。

 私が友達に求めるのはこういう役割なのかもしれない。その役割こそ友達の定義の1つなのかもしれない。

 『役割』というとまるで友達を利用しているかのように聞こえるが、我々人間が友達をつくるということは、もっと本質的・本能的な意味があると思う。

 友達をつくるという行為は、種の保存のために脳に予め刷り込まれているのである。

最後に

 今回の体験を通して、自分のこだわりを乗り越えて相手の短所を許せるかどうかが友達の境なのではと考えた。

 だから、仲は良いけれどAは友達ではない。そしてBは友達である。

 Bは私に広い視野を与えてくれた。Bは私の人生をより楽しいものにしてくれている。本当に感謝している。

 ただ、こういうことを考えていると「こうやって友人を分類してて幸せになれるのか」と思ってしまう部分がある。

 なんか凄くいじらしい気がするし、性格悪いなーとつくづく思う。

 でも、考えを止められないし、それを無視することはできない。

 私に限らず全ての人にとって友人との関係は大切である。

 また、時間は限られているので、持てる友人の数にも限界がある。

 言い方は悪いが、友達をより厳選していく必要がある。

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